2017/10/16

永遠の、瞬間

子どもの頃の記憶で今もあざやかに残っているのは
なぜかどれも一人でいる時の風景だ。
夕日が山へ沈んでいくのが見える、小学校の校庭のブランコに、
一人座って日が沈んでいくのを眺めるのがとても好きだったこと。
波々伎神社の森で生い茂る木を見上げて、木の葉の揺れる音に耳をすませていたこと。
この瞬間瞬間は、私の中で永遠に胸に残っていて、
ふとした時に、すぐ目の前に帰って来る。
本を読んだり、音楽を聴いたり、
外の景色を眺めながらコーヒーを飲んで一息ついている時に、
それはふっとやって来ることもある。

FOLKLOREの演奏は、雲間からこぼれる日の光のような
優しく懐かしい暖かさでゆるやかに心の扉をひらいていって、
しまい込まれていた風景を思い出させてくれる、そんな音楽だった。
きっと同じ時間を過ごしたみなさんも、
感じ方はそれぞれに違っても、確かにあたたかなものを感じたはず。
たえず生まれては消えてゆく、この、美しい音楽。

harukanakamuraさんが青森で生まれ育ったと聞いて、
子どもの頃に同じような美しい風景を見て
同じように言葉にできない気持ちになっていた一人の時間がきっとこの人にもあって、
それを今も大切に大切に守り続けているのだろうと、
なにかがつながったように感じてとてもうれしい気持ちになった。

そして時には、記憶にはない記憶の断片のようなものも入り交じって
心の深いところに届いてゆく。
いにしえの音を奏でるソプラノサックスの内田輝さんに、
あなたは生まれ変わった回数がきっと人よりも多いのだろうな、と言われて、
だから出て来るものもこんなにもたくさんあって、
こんなにも激しいものなのかもしれないな、と思い当たった。
自分の中の、このややこしくて複雑なうまれては消えてゆく感情と
それでもなんとかうまく付き合うことはできるようになったのは、
最近のことかもしれない。
写真家の中川正子さんとの出会いも含めて、
今だから、みんなと巡り会うことができたんだと確信する。

音楽も、楽しい時間も、はじまりがあれば終わりもあって、
出会いがあれば別れがあるわけだけれど、
また自分の中に永遠に残っていくだろう幸福な瞬間がこの二日間でなんども訪れた。
ありがとうございます。

かみさまっているんだね。知ってたけど。

2017/10/14

雑感

○親が子のためを思って、“してあげてる”と思うことって、
大きさの差はあれどすべて親の個人のエゴなのだなぁ、と
つくづく感じるできごとがあった。
それよりも、親が子を思って“しないであげる”ことの大切さ。
そして、時には“これは親のエゴなのだけど”ときちんと自覚して、
でも一人の個人としての自分を大切にするために、
子どもにどうにか付き合ってもらえないかお伺いを立てることの大切さを想う。

○家族というのは、同じ家の中で生活を共にすること。
異なる価値観の一人ひとりが折り合いをつけながら
一緒に暮らすということ。
たとえば夫婦二人きりの家族なら、二人で折り合って、
二分の一の妥協点を日々模索しながら生活をする。
もし四世代が共に暮らす八人の大きな家族なら、
ささいなことで目くじら立てたりしないで
いつもはしなやかにさらりとうけながす。
それで八回に一度は自分の意見をまっすぐ貫き通す、
くらいの心持ちがいいのかもしれない。
この何回に一回、というのは大人も子どもも関係なくて、
同じ重みの一回であること。これが大事。
そして、うちはうち、よそはよそ。


2017/09/22

夕ぐれの時はよい時

格別に見事だった、今宵の夕暮れ。
あぁ、見せてあげたい、この光景を贈りたい、
そう思う恋しい人が何人も浮かぶ。

日が沈んだ後の西の空。
細く長く横に伸びている陸地をはさんで、
グレーがかった濃い群青から橙へのグラデーション、
そこから淡く白みながら黄色へ、
ゆるやかに宇宙の青へ広がっていく。
陸地をはさんだ下側には湖にうつって
同じグラデーションが広がっている。
魚が跳ね波紋が広がり、
大きなつばさを悠々と広げサギが湖面すれすれを横切ってゆく。

カメラが手元になかったのだけど、
これもこれでとてもきれい。
目をつむって想像してみてね。

2017/09/17

はてしない物語

“腹がたったら自分にあたれ、悔しかったら自分を磨け。”
何かの度に思い出しては力をもらう、村上春樹さんの言葉。
でも大事なことにさっき気がついた。
私、怒りも悔しさも一瞬メラメラっと燃え上がって、すぐに鎮火するほう。
一日と持たない。

それよりもぐずぐずとくすぶってしまうのは、
悲しかったり淋しかったりでやりきれない気持ちになる時。
これは早めに対処しないとしばらくしょんぼり過ごす羽目になる。

そんな時には本を読むしかない。
そうだ、私には本がある。
扉を開けて、しばし物語の世界へ。
本当と虚構が一緒にある世界へ。

ほんとうに目に見、耳に聞こえるように、はっきりと思い描く。
アトレーユになり、女王幼なごころの君になり、バスチアンになる。
アイゥオーラおばさまにも早く会いたい。
久しぶりにゆっくりお風呂に浸かって読んでいたら、ちょっと元気になってきた。
汗と一緒に毒素も少し出ていったような。
早めの対処が肝心。



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だがどんなことに出会おうとも、けっして自らそれに手を出してはならぬ。
これより先、そなた自身の考えは意味を持たぬのだから。
ゆえに、いかなる武器もたずさえずに出発するのだ。
何ごとも起こるがままに起こらしめよ。
悪も善も、美も醜も、愚も賢も、すべてそなたにとっては区別はないのだぞ。
幼なごころの君の前においてはすべてが同じであるようにな。
そなたのなすべきことは、求め、たずねることのみ。
そなた自身の意見にもとづいて判断をくだしてはならぬ。
よいか、けっして忘れるでないぞ、アトレーユ!



2017/09/07

さよならなんて云えないよ

那須帰省を終えて帰ってきて、とたんに小玖有が私になつくようになった。
理由を聞くと、こわいかっか(かっか、は私のこと)から、
優しいかっかになったからなのだそう。
夏の忙しさや、ムシムシとした過ごしにくさを言い訳に
あまりかまってあげれてなかったかも。
優しくできてなかったかも。

那須で本当にたくさんに人に優しくしてもらって、
優しさの充電が満タンになりました。
私も優しさのおすそわけをしていこう。

自分たちの今いる場所以外に、特別な、大好きな場所があるだなんて、
なんて幸せなことなのだろう。
もちろんそこに住んでいられればそれもまたすばらしいのだけど、
離れているから心が通いやすいことだって、たくさんある。
離れているから照れたり遠慮したりせずに思いきり優しくできるんだろう。
そう考えて、ここで、前を向く。
もちろんすごく淋しい気持ちもあるのだけど。

保育園に送りに行った帰り道に、オザケンの『さよならなんて云えないよ』がかかる。
どうかぜひ、歌詞をゆっくり読みながら聴いてみてほしいなぁ。